薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木/江國香織

IMEは便利だなあ。全部、漢字がちゃんと出るよ↑(笑)
読了しました。感想。この小説は、一組の夫婦とそれを取り巻く友人たち、恋人たちの「日常の」物語だ。愛の欠如、愛の過剰、愛の迷走、愛の発見。そういう日常の物語。結婚、離婚、SEX、情事、密会。ほかもろもろを含んだ、そういう日常。

たとえば最近「三高」という言葉があって、日本の女の子は、背が高く、学歴が高く、収入が高い男性しか好きにならない、といわれてるのですが(勿論これは事実ではありません、念のため)、たいていの人はそれを困った傾向だと考えています。条件付で人を愛するなんて不遜だ、不誠実だ、あまりにも打算的だ、ってね。私には、独身の人しか好きにならないというのも同じことに思えます。
泣かない子供「ラルフへ」角川文庫/江國香織より引用 

主人公の陶子は申し分ない夫、水沼との結婚生活を持ちながら、偶然日曜日の公園で出会った慎一との情事に落ちる。陶子は家に夫を残し犬を連れ散歩に出、犬を花屋に預け慎一とホテルへ行く。情事が済めば彼女は再び現実を呼び戻して下着をつけ、「行かなくちゃ」と現実へ帰っていく。
陶子は「情事は所詮情事だ」と言う。水沼との結婚生活に満足しており、慎一との情事のためにそれを捨てる気はさらさらない。
陶子を「不貞の女」ということもできるだろう。でも、これが「ナシ」だと、こんなことはあってはならないと、誰が言えるだろう、とも思う。結婚している人を好きになってしまう。でも、結婚している人だからあきらめる。あるいは、自分が結婚しているから、あきらめる。相手に不貞をはたらかせること、自分が不貞をはたらくこと。それを「ナシ」だと断じてしまうほどの価値が、「誠実」というものにはあるのだろうか?と思える。そして、自分が「人を好きになった」という感情を、そんな理由で封印することのほうが、その感情に対する「不誠実」なのではないかとも思う。その「不誠実」について、人はもっと思いやる必要があるのではないか、と思う。
むしろ、結婚したら一人の人を愛し続けなければならない、などということに誓いを立て約束することに「不誠実」を感じる。そんなことが、なぜ約束できるのだろうか。そんな約束でお互いを縛り続けることが、果たして幸福なのだろうか。結婚するときに誓いを立てるなら。たった一つ、絶対に守るべき約束をするのなら「私はあなたを傷つけることはしない」ということではないかと思う。そして「もし傷つけなければならないのなら、私はあたなと別れる」と。
一人の人を愛し続けることなんて不可能に決まっている。そんなことを約束し、それを信じているなんて、不誠実を通り越して、傲慢ですらあると思う。あるいはひどく鈍感なのだろう。「愛に対しての罪深い鈍感さ」。
自分が愛されること、自分の愛が相手に伝わらないことを疑わないのは罪深い鈍感である。愛に対する、とても不誠実な態度だと思う。愛は具体的な努力や金銭的支出や労働によって発生すると思う(それのみによってしか発生しない、とは思わない)。常に確認が必要で、常に「形にする努力」をしなければすぐに見失う。その労力はきっと一生を賭けて行われるものだろう。愛し続けるということはその覚悟を持つということなのだ。

そんなこと、恐ろしくておいそれと言えない。
「君を愛している。そしてずっと愛し続ける」なんて。