ほんとうに自分の国が戦争をするなんて思ってもいないのだ

最近「折々のうた」大岡 信著を読んでいます。岩波新書の初版、1980年刊。
そのなかでよりぬきでときどき一句ずつ紹介してみたいと思います。
で、今日はこれ。

「戦争が廊下の奥に立っていた」渡辺白泉

第2次世界大戦が始まった年、昭和14年作の句です。どうです、どきりとしませんか。今の私たちでも十分にどきりとさせる力を持っている句だと思います。そうなんです。戦争は廊下の奥に立っていて、いつものように廊下を歩いていたら、そこで戦争に出くわしてしまう。気がついたら自分の日常はもう、戦争なんです。そしてその時まで、人はそこに戦争があることに気がつかない。明日私たちは廊下の奥で戦争に出会ってしまうかもしれない。つい昨日まではまさかそんな、と思いつつ戦争にはなるまいと思っていたのに。これはどこの国の人たちも同じなのではないか。まさか自分の国で戦争が始まるとは。自分が戦争をするとは。みんなそのときになるまで気がつかない。でもいつもの廊下の奥にそれがあって、昨日までの日常が平和ではなく戦争になってしまうこと、これはまさに、晴天の霹靂です。
最近は好戦論がもてはやされる昨今です。経済制裁だ、集団自衛権だ、ミサイル発射基地への先制攻撃は専守防衛だとかなんとか…でもみなさん、ほんとうに覚悟がおありですか?いつもの廊下の奥に戦争が立っていたとして、それに巻き込まれることへの覚悟はできているのですか?
第2次世界大戦当時の日本人のどの程度の人たちが、覚悟を持って戦場へ赴き戦ったのか知りません。靖国で会おうと言って国へ殉じた人もいれば、覚悟なきままやむを得ず、戦場へ駆り出された人も多いはずです。むしろすすんでお国のために命を捧げる覚悟をしていた人の気持ちというのは、むそーの感覚としては気持ち悪いです。否定する訳ではありませんが、理解は出来ませんし共感できません。
誰も廊下の奥で、戦争に会ったりしたくはないはずです。覚悟をするのなら戦争を回避する努力をすることに覚悟する、その方が理解しやすい。ただ、私たち、日本人のみならず世界中誰の家の廊下の奥にも、戦争は潜んでいる。今日の平和はかりそめのものかもしれない。不断の努力に寄って平和は保たれるのだということ、覚悟や努力なしに平和は手に入らないということを、各人肝に銘じておかなければならないと思います。