東京を見下ろしていろいろ考えたこと。

昨日は六本木ヒルズのTOKYO CITY VIEW(展望台ね)にのんびりしに行きました。椅子に座ってのーんびりと梅雨まっただなか、ぼやっと雨に煙る東京を眺めてていろんなことをぼんやりと考えてた。生きるってなんだろうなーとか。
生きる意味とか、考えるじゃないですか?人って。でも、そもそも生きる以上のことに意味を見出そうとしたのは人間だけなんですよね。動物は生きて子孫を残して、そしたら死んでいく。自分の命を次につないでいくことだけを考えている。人間だけが生きる以上の意味を、ただ生きるだけではなくて、生きているからには何かをしなければと考える。自分の人生を価値あるものにしようとか考える。だけれども今度は生きる以上の意味を考えすぎて、生きる意味のほうが分からなくなってしまっている。そんな感じがするなと思いました。よく考えれば滑稽ですよね、人間て。
TOKYO CITY VIEWから見える東京タワーや高層ビルや高速道路や車や橋や。それらを作り出した人間の社会というもの。これが人間が作り出した、生きるという以上の意味を問われる「もうひとつの野生環境」なんだろうな。ときどき「こんなもの(生きる以上の意味を問われる人間社会という野生環境)を人は作り出したかったのか?」と自問自答したりする。人間とてただの動物、生まれて生きて次の命を残して死んでいけばいいだけのものではないのか?と原点回帰なことを考えたりする。でも人には進化した脳を持っていて、大脳新皮質が、前頭葉が、自分たちの生活をより快適に、より安全に、より心豊かに、ということを追い求めてきた。そういう人間の所業も、これまた人間という動物の自然の営みだ。ならば人間が、生きる以上の意味を問われるこの人間社会という野生環境の中で生きていかざるを得ないのもまた、人間という動物の自然の営みなのだと思う。
生きる以上の意味を問われ、悩み苦しむのが人間の性(さが)。その揺り戻しで、生きる意味とは?と悩み苦しむのもまた人間の性。どのみち苦しむのならば、苦しむことにあまり意味は無いのかもしれない。救いの無いことに救いを求めてもしかたないのだ。ならば結局私たちにできるのは、その苦しみとうまく折り合いをつけて、なるべく楽しく生きることだけなのかもしれない。
「人生は短い。一瞬一瞬を無駄にするな」なんて常套の説教があるけれども、むしろむそーは「人生はどうせ短い。一瞬一瞬を楽しく無駄にしろ」と思う。楽しむ心からピースな気持ちが生まれる。自分を愛し、人を愛することができる。自分が笑えるし、そのまわりで家族が、友達が、恋人が笑っている。それでいいのではないかな、と思う。