金毘羅/笙野頼子

読了。でも良く分からなかったので再読してます。解説も難しい。まあ簡単に言うと「マイノリティの怨念は恐ろしい」ってことなのか?違うか。作者自身が自分のマイノリティ=女であること、ブスであることから自己肯定(=私は金毘羅である!)に至るまでの闘いの話という感じ。神仏習合には非常に興味を抱きました。庶民の神は大和朝廷と廃仏毀釈国家神道によって皆殺しにされ、持てる者の悩みの救済として仏教が普及し、しかし極私的な、自分の存在意義、自分がなぜここにいるのか答えてくれる極私的な祈りをささげる神は、いまの日本にはいない。
・・・むそーは基本的に宗教アレルギー体質ですが、神道と仏教には興味があります。神道は母方の祖父が熱心に信じておりました。死後その家を守る神になる、という考え方はなんとなく自分の考え方にしっくりする感じがしました。神と人、死者と生者の間は連続的であるという考え方が。仏教もお盆には死者が還ってくるとか、即身仏・・・人が仏になるって考え方がある。仏と人の間も連続的。あとアミニズムにも興味がある。自然信仰。たとえば巨岩とか巨木とか。自然現象。人智を超えるものに対しての畏敬。古い神。禁忌。言い伝え。たとえば井戸の上に上ると井戸の神様に怒られるとか。
なんというか、答えを探らせてくれるものが好きなんだと思います。神でも仏でも。信じるより疑うほうが好き。だから禅宗が好きなんだな。「仏さえ疑え」とか言っちゃうから気持ちいいよ、禅宗は。疑うのが好きなのは、きっと科学の子だからです。理屈を超えたものは嫌い。でも理屈にもいろんなフェーズがあると思う。宗教のパラダイムの中での整合性。それが科学のパラダイムと交わるときなんかは興奮するし。
AD変換に似ているかも。アナログデータをデジタルにする。宗教という古い知恵(古い=よくないもの、ということではない)で説明されていた世界を科学という新しい知恵で説明しなおそうとする。でも説明し切れていない、今はまだ。むそーは科学の子だから宗教という古い知恵で世界を見るよりも、科学という新しい知恵で世界を見たい。でも古い知恵にだって感動する。それは知恵の意義が同じだから。世界の構造を知りたい。世界の仕組みを知りたい。宗教も科学もそのための方便だし、どちらが優れたやり方ということも無い。「神は存在する」というパラダイムによって世界の構造と仕組みが説明できるのならそれでいい。ただ、むそーは科学の時代に生まれた子だから「神は存在する」って言われても「納得」できない。納得しさえすればむそーの中で「神は存在する」というパラダイムによる世界理解が行われるのだから、それはそれでめでたしだが。
「科学は万能だ」「科学によって世界の全てが解き明かされる」とは言わない。ただ謎があるのは怖いのだ。人がなぜ知恵を使って世界を理解しようとするかというと、結局怖いからなのだ。自分たちの知らないことが、知らないことによって災厄をもたらすのではないか?だから人はこんなにも必死になって世界を理解しようとする。そのテクノロジー、理解する技術という意味においては、宗教も科学も一緒だと思う。宗教の理屈も否定しない。井戸の上に上って井戸の神様が怒って水が飲めなくなるか?科学的に言ってありえないけれども、でも可能性がある(謎がある)のならとりあえず井戸の上に上るのは止めておいたほうがいい。要は組み合わせればいいだけの話だ。宗教も科学も、どちらもまだそれだけでは世界を把握し得ない、未完成な技術なのだから。
ってか、金毘羅の話からすごい脱線(^^;