「おたく:人格=空間=都市」展

ヴェネチア・ビエンナーレで大好評を博した日本館の展示「おたく:人格=空間=都市」が、凱旋帰国展を東京写真美術館で行っている。見に行ってみました。これについては様々なメディアにおいての報道を細かく見ていたので、実際の感想は「報道どおりだなあ」といったところ。一番興味をひいたのはコミケット20年資料集。できることなら欲しかった。
レンタルショーケースやおたくの個室やコミックマーケット会場や秋葉原や。そうしたものに共通するのはそこが混沌(カオス)であるということだ。上記にあげたものはイレモノに過ぎない。イレモノの中に何を置くか、何が現れるか、何が生まれるか。なんでもアリなように見えてなんでもアリなのではない。そこには一つの秩序・・・「おたく」という見立てが存在する。どんなものでも「おたく」という見立てがきちんとなされていれば、そこは混沌のように見えて、実は秩序が存在する。混沌はおたくという見立てによって秩序化される。なんでも飲み込み何を生み出すか分からない。その意味においては混沌だが、しかしただ一つ、おたくという見立てに寄らんずば存在し得ない、淘汰される、その意味において完全なる秩序、ヒエラルキーが存在するのだ。
たとえば「萌え」である。「萌え」とは架空のキャラクターに対する擬似恋愛、特に何に「萌え」るか、どこに「萌え」の基準を置くかが最重要だ。つまりこれも見立てである。たとえば眼鏡萌え(基本的過ぎるが)。眼鏡=暗い=ブサイクというネガティブなイメージがある眼鏡というモチーフ(基準)に対して「暗いのがいいじゃないか」「ブサイクで内気な感じがいいじゃないか」という「見立て」を行うことによって価値を見出す。千利休が欠けた茶碗の欠け具合がよい、と言って新たな価値を見出す。それと同じ行為が、おたくたちの間で普通に行われている。
おたくとしての「格」とはつまり、なにを基準とし、どこに価値を見出すか、それにかかっている。既存のアニメ、マンガ、ゲーム・・・架空の物語、それらを構成する記号、エッセンス・・・それらを組みあわせクロスオーバーさせて、新たな価値を見出す。ただ既成の作品を消費する消費者ではなく、自分の価値、自分の好み、自分の基準・・・自分がいかに「萌え」られるよう創意工夫する能動的な価値創造者。それがおたくではないか。
「おたく:人格=空間=都市」展は、そうしたおたくたちの活動の豊かな土壌である秋葉原という町を、そして入れ子状にコミックマーケットレンタルショーケース、そして自分の個室・・・濃密で凝縮されたこの豊かなる土壌について雄弁に語ったものとして、高く評価できる内容だったと思う。