第2回 府中ビエンナーレ

府中や多摩地区にゆかりのある新人の現代美術作家を発掘し紹介する「府中ビエンナーレ」。現代美術って好きなんだよね。意味のわかんないところが(笑)。いや、けなしてるんじゃなくてなんていうか見る側の想像力を非常に刺激するんだよね。作家の意図と鑑賞者の視点の相互作用で作品が成り立っているような。特定の意思や志向を持ちすぎない、鑑賞者を遊ばせてくれるアート。そんな自由さがある現代美術が好き。
今回特に気に入ったのは安岐理加という作家の「わすれてはいないこと」という作品。
ワークショップで小学生が作成した石膏のカタマリ。丸や三角、壷形や円柱状もある。それらが床に雑然とならべられ、白い石膏のカタマリを、白熱灯が照らしている。球状のものが、一番多い。完全な球を目指しながら、しかし完全な球になり得なかったカタマリたち。転がすとそれぞれユニークな転がり方をする。その動き、リズム、それはそれぞれのいびつさに起因する固有の動き。単に石膏を丸めたものにさえ、「オリジナリティ」が発生するのだ。人の手が加わるということは、そういうことなのだ。
中には石膏に指のあとが分かるものもある。指の形、爪の形、成長し変化していくであろう小学生の手。しかし、いまこの石膏のカタマリの上に刻まれてあるのは、そのとき、その一瞬の「手の記憶」なのだ。指の形、爪の形が残るものばかりではない。人の手により作られたものは、のちにどのような方法によっても、同じものを再現できない。力のかかる角度、力の量、手の形、温度・・・そういったものは、すべて形の上に記録されている。
「人の手になるもの」。そのときにしか行えない行為。2度と同じ事はできず、またやり直すこともできない。人為とは、ただそれだけで独創的であり、かつ消すことができないという意味において恐怖である。希少なるもの、神秘なるものも生み出しうるが同時に恐ろしい罪をも犯すことができる。それが「人為」というものなのだ。
他については強く印象に残らなかったので書かないが、石川雷太という作家の米軍ヘリ墜落に材を取った作品は、自分の世界の狭さを思い知らされるインパクトを持ったものだったことを記しておく。