本読み強化中。

最近新たに2冊本を買いました。積ん読状態になってる本があるので、最近読書強化中。
新たに買った本は江國香織の短編集「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」と森博嗣のweb日記の文庫化「封印サイトは詩的私的手記」。

泳ぐのに、安全でも適切でもありません (集英社文庫)

泳ぐのに、安全でも適切でもありません (集英社文庫)

江國香織の本は久しぶりでした。しばらく読めなかったでしたが、ふっと「あ、これ読んでないなあ」と思って読みました。うーん、感想を書こうとしてもなんとも書きようがないですね。もっとも、本とは必ずしも感想を述べるために読むものではないのだから、それはそれでいいんだけど。10本の短編が収録されていますが、それぞれに「ああ〜」と思うくだりがあって、たとえば、と言いながらここで一部分引用してみようと思ったのだけど、でもそこだけ引用しても何か伝わるものではなくて、それは物語の転がりの中で出会うから「ああ〜」と思うものなのでやはり引用はできない。
この「ああ〜」というのは共感とか感嘆の「ああ〜」ではなくて、ではなんなんだろう?と考えるんだけど、なんだかは分からなくて。ただなんとなく「そうなのか」「そういうこともあるか」と思っているような感じ、なのだ。ぜんぜん確信が持てない書評なのだけど、ほんとに「それはそうかも」という仮定すら使えないくらいの、でも全く理解も共感もできないわけではなくて、それはあるはずという思いだけがあって。みたいな。うーん、全然うまく言えない。ただこういう感覚は江國香織の小説でしか味わったことがなく、まさに江國香織の感性だけが引き起こしうる感覚だということは間違いなく言えるのです。だからこそ、読む価値がある。
江國香織の近刊、最近は追いかけていなかったので、また読んでみようかなと思ってます。
森博嗣の「封印サイトは詩的私的手記」現在4月まで読み進めてます。この人の相変わらず偏った思考、嗜好、志向が大好きです。ここまで快活に偏っていると逆に愉快ですね。といっても偏っているというのは何を基準として?ってツッコミが森先生から入りそうですけど。正確には「基準の置く場所が違う」ってことですね。でもそれってみんな当たり前のことなのに、なぜ自分とかけ離れた場所に基準を置いている人を見つけて「偏っている」と指摘するのか?というのは不思議がらなくてはいけませんね。
人にとって何が重要で何が重要でないかはさまざまなのに、社会で生きる以上妥協と矛盾を許容することが求められるわけで。その時に可能な限り妥協せず、矛盾を許容せず生きるという選択肢と、みんな社会のしがらみの被害者だよね〜、なづらして生きるという生き方があると思います。前者は世間一般からは「変わり者」呼ばわりされて多少疎んじられるでしょうが、本人はきっと獲得した自由の中で生き生きとしているはず。世の中には「変わり者」と呼ばれ世間ずれすることを恐れる人もいますから、結局どういう選択をするかって向き不向き、向き不向きを形成した周囲の環境や教育の結果、なんでしょうね。