靖国神社へ行ってきた。

むそーにとって、日清日露戦争日中戦争、太平洋戦争は、日本帝国主義の侵略戦争という認識しか持ち得なかった。だから靖国神社がこれらの戦争を「日本の自立自存のためのやむを得ぬ戦争」として位置づけているのは、ひどく気持ちが悪いのだ。
生まれて初めて、靖国神社へ行った。きっかけは「靖国問題」である。靖国問題を知らないので、これは靖国神社へ行ってみるしかないだろうと思った。知らないものについては何も答えられないからである。
行ってみて、びっくりした。現代の日本に、こんなところがあるのかと。あっていいのかと。ここは、おかしい、と思った。ここは、ある意味で「戦後ではない」。靖国神社戊辰戦争以降の戦死者を神として祀っている。国のために戦い名誉の戦士をした者は、ここで手厚く祀られるのだ。そんな場所で、日本の過去の戦争は日本の帝国主義的野望のもと、アジア諸国の独立を踏みにじる侵略戦争だった、という解釈はなされていない。欧米諸国から日本の自立自存を守るため、そして欧米列強の帝国主義的抑圧からアジア諸国民を解放する「聖戦」だったとするのである。そしてその戦争が裁かれた「東京裁判」についても「戦勝国の一方的な断罪である」として、その罪を認めず、A級戦犯である東条英機らも靖国神社では「神」として祀られているのだ。
むそーにとって靖国神社の近代史観は愕然とする内容としか言いようが無い。愕然とするし、さらにこれが現在も公然と受け継がれ、尚も啓蒙され続けているのだ。そして、そういう場所に小泉首相、そして過去数人の首相が公式に参拝している。首相とは日本国の行政権を握る者である。この靖国神社の近代史観を是とする首相に日本国の行政を委ねているのだ、と思うとぞっとするのである。小泉首相はただちに参拝の取りやめを表明するべきだし、取りやめないのならば、主権者である国民として、むそーは小泉首相を罷免するべきだとさえ思う。
本殿の横の売店の軒先に立って、参拝する人たちを眺めてみた。参拝方法など心得たもの、慣れた所作で参拝する人もいれば、靖国神社も普通の神社と変わらず願い事をしている様子の人、楽しげにおみくじを引く人もいる。むそーは参拝する気にはなれなかった。戦死者に対する慰霊の気持ち、追悼の気持ちはあるけれども、でもここに祀られているのは、「聖戦」に倒れ「名誉」の戦死をした「英霊」であり「神」となった戦士たちなのだ。本殿で祈りを捧げるとき、それは単純な「追悼」でも「慰霊」でもなくなっている気がした。
本殿の入り口の前の鳥居横には戦死者の、そして「神」となった戦士の遺書が掲示されている。お国のために笑って死にに行きます、と書かれた遺書を読んで、むそーはそんな笑顔は見たくない、と思った。私が祈りたいのは、死を名誉と感ずる戦士のあなた、英霊として祀られ神となった栄誉に浴しているあなたではない。戦争の時代に生まれ、戦士となって戦い死んでいかざるを得なかったあなた、違う時代に生まれ、違う生き方を選び、笑って生きていたかもしれなかったあなた、そのあなたのために祈りたい、と思った。神となったあなたに祈りを捧げ、尊崇する気持ちは、むそーは持てなかった。結局本殿にあがることはできずに踵を返した。
本殿の鳥居を抜け左へ進むと遊就館という建物がある。その前のベンチで休んでいると少年にインタビューされた。小学5年生、自由研究のためインタビューをしているという。話題は郵政民営化から世界や日本の関心事、都政への注文、政府への注文と多岐に渡った。手には「満州事変」というタイトルの学習マンガが携えられている。彼はここで何を学んだのだろうか。ここで学んだことをどう理解したのだろうか、とても気になった。どうかここで学ぶことだけが真実だと思わないように。物事の捉え方は常に相対的なのだ。靖国神社の近代史観を学ぼうとするのは悪いことではない。でも、別の見方もあることを知るべきだ。そして中国や韓国、アジアの人たちには、また別の捉え方がある。戦後民主主義を教えられ、戦争と利害的な結びつきの無いまま育ったむそーと、戦犯や靖国神社に親族を祀られている人たちでは、また捉え方が違ってくる。自分の捉え方を押し付け、それ以外を拒否するのではなく、相手の捉え方を知ろうとし、その中にも正しさを見つけて共感する努力をしなければならない。いろんな人にインタビューをする彼が、そのことに気づいてくれるといいな、と思った。
雲行きがだいぶ怪しくなってきている。あまり時間がないので遊就館を見ることはできそうにない。1階ロビーだけ、トイレを借りるついでに見て回る。ゼロ戦や大砲やら戦争関連の書籍やビデオやCDや能天気な土産物やら…あらためて唖然とする施設だな、と思う。日露戦争100年記念の特別展示も催されている。戦前はきっと、こういう空気に満ち満ちていたのだろう、日本中が。そう思ったとたん、ここで働いている人々、ここを訪れている人々がみんな、唐突に怖くなった。みんな善良な日本国民なんだろうけれど。自分と同じ、日本国民なんだろうけれど。
空には暗雲が立ちこめ、ぽつぽつと雨が降り始めている。そのうち土砂降りになるだろう。靖国神社の二の鳥居、一の鳥居と通り抜けながら、九段下駅へ向かう。巨大な鈍色の鳥居が不気味にむそーの目に映る。あらためて思う。現代の日本にこんなところがあるなんて。こんなところが平然と存在するなんて。そしてそれを疑問に思わない人たちが大勢いる。その中には日本の首相さえいるのだ。
靖国神社という場所。靖国神社という思想。その思想を受け入れている人々。むそーにとってそれら全てが恐ろしいことだった。一の鳥居を抜けたむそーが九段下駅に駆けていった理由は、雨が降り出したからだけではなかったかもしれない。