いろいろ考えたこと。

人間の文化って社会・世界に対する個人のかかわり方から全て生まれるんじゃないかと思う。社会や世界に順応し染まる人もいれば正面からぶつかって染まらない人もいる。個人個人で社会の捉え方も色々だし社会とのかかわり方も様々だし。で、そのかかわり方、生き様こそが文化なんじゃないかと。
だから文化というのは結局は個人的な理由から生まれている。その文化が広がるか広がらないかは、その個人的な理由が共感を得るか否かにかかってくるのであり、その個人的な理由が普遍的な価値観だから、では決して無いのだと思う。それはあくまでも個人的理由に対する個人的共感の集合なのだ。ましてや個人個人がそれぞれにかかわっている社会・世界の捉えられ方にも、普遍的な捉えられ方というのは存在しない。それは人がそれぞれ個人個人で、生まれた場所、時代、教育、環境・・・によって社会・世界の見方が違うからである。その捉えられ方にどれだけ共通性があるからといって、そこに普遍性がある、なんて安易に言ってはいけないと思う。それもまた個人的な社会・世界の捉え方に対する個人的な理由を基にした一致の集合、でしかないのだ(もちろんそれが多くの人との一致を見るものであれば強力な思想ではあるだろうが)。
全ての価値・物事の見方・社会や世界の捉え方は、相対的なものなのだ。普遍的な捉え方、普遍的な社会観などというものは存在しない。また誰かの価値観や意見や思想が普遍的で疑いようの無いものだ、などとということも決してない。全ては個人的なもの、全ては相対的なものなのだ。結局信じるのは自分自身の感覚である。私は私の感覚を信じている。そして同時に私は私の感覚を信じていない。私は私の捉え方・・・私の生まれた場所、時代、教育、環境が作り上げた私のやり方で社会を、世界を捉えているけれども、でもそれを拡張したいとも思っているし、間違いがあれば(それがどれだけ根本的なものだとしても、自分が間違いであることを自覚すれば)訂正したいし、より高次の視点(それがどんなものかは知らないし、信用できるものなのかも分からないが)が自分の認識を広げてくれることを期待もしている。そういう意味で今の自分の社会・世界の捉え方を信用しつつ、それを拡張する方法、より高次の視点へとつなげていく方法を探しもしているのだ。そういう意味で今の自分を信用しきらないでおきたいと思う。ただ私はいまのところ、いまの自分をベースに成長したいと思っている。今の自分のベースには、今のところ自分なりに信頼を置いているから。
・・・なんて、真面目なことを言いながら、ネットサーフィンのさなかにhitomiの新曲のジャケ写を見つけて「なんてエロい脚と腰のクビレなんだぁ〜」とか悶絶している自分が、ひそかに大好きなむそーです(ああ、真面目なことを言い過ぎたあとはこうして自分をオトしておかないと落ち着かねえなあw)。