病。

このごろ、自分が何でこんな人間になったのかということをよく考える。独りになったからというわけでもないけれど、最近「自分のありよう」というものにはっと気づかされることが多いからだ。

子供の頃の話をしてみようと思う。むそーは生まれてこの方、たぶんいじめられっ子、というか友達の中でも劣位に立つことが多かった気がする。
むそーは頭は良かったけれど、運動が苦手でどんくさい子供だった。頭がいいとか感受性が豊かとか、そういうことは大人にはほめられても、子供の世界の中では価値のないことだった。子供の世界は腕力が絶対なのだ。
むそーは競争の嫌いな子供だった。なぜならいつも負けるからである。だから友達は私を引っ張り出すことに腐心した。「負ける私」がいることが、彼らにとって自分を優位に立たせておく方法だったからだ。勢い、むそーは一人遊びが好きになった。友達が遊びに来ても居留守を使うことがあった。

いまの自分のありようを大きく決定付けた時期というのは、たぶん中学生のときだったと思う。
中学生の頃、むそーはいじめられっ子だった。お金を取られることもあったし、チャリ通だったむそーは帰りに人を乗せていくことはほとんど義務みたいなものだった。
基本的に受身なのだ。状況に対して。状況がそうであるならばそれはそうなのだろう、と思っていた。逆らうこと、争うことが苦手だった。戦って状況を変える、ということにすごくストレスを感じていた。

むそーはあの頃、神様になりたかった。全知全能の神。人間の為す瑣末なこと全てを超越してしまいたかった。真剣に思っていた。この世界、宇宙の全ての出来事・・・分子・原子の振舞いの全てでさえも、リアルタイムに正確に把握したいと思っていた。なにもかも見通して、全てを超越したかった。それが出来ない自分が悔しかった。本気で「なんで自分は神様になれないのだろう」と悩んだ時期があった。
ハイゼンベルグの不確定性原理を知ったのは、その当時読んでいた相対性理論の本でであった。素粒子のような小さな物質の、位置と運動量(エネルギー)を同時正確に観測することが出来ないことを証明したその原理は、むそーにとって衝撃だった。むそーにとって科学は絶対だったから(科学を超越する、などというインチキなことは考えられなかった。たとえば宗教のような。)、科学でも宇宙の一瞬を正確に把握できないのに、どうして自分などにそれが出来るだろう、とやっと悟ることが出来たのだ。

むそーはバカのふりをして生き始めた。バカのふりをして生きていれば、自分がこの「競争」の社会の中で劣位であることを惨めに感じなくても済む。心の中で、その社会を侮蔑しながら。
むそーは自分が正しいことを知っているという確信があった。自分が社会を正しく捉えられているという自信が。それさえあれば、この「間違った」社会の中で生きていくことが出来る。「こんなことで死ぬもんか」塾の帰りの歩道に座り込んで、泣きながら何度もつぶやいた言葉。涙の数だけ、自分を鍛えていたあの頃。
自分を理解してくれる人がいなくてもいいと思った。愛されなんてしなくても全然平気だった。不幸なんて慣れっこだった。むそーにとって「孤独」は当然のことだったし、自分が何も持っていないことなど全然平気なのだ。いまたとえ全てを失ったとしても、むそーはきっと平気だろう。笑っていられるだろう。自分がどんなに惨めな状況になっても、きっと生きていけるだろう。
なぜなら自分には元から何もないのだから。でも本当は、とても辛かった。辛くて辛くて、それはきっと耐えられない辛さだった。しかしそれに耐えてしまったことは、自分にとってある意味最大の不幸なのではないかと思っている。

ウザイ文章ですが、気が向けばまた書くつもりです。