偽善。

自分がなにをしたいのか考えている。自分がなにをしたいのか考えている。でも、自分がなにかできるなんてことを、屈託なく信じることに恐れを感じる。自分が何者かになり、自分が誰かに認められ、誰かに愛されるなんてことを、屈託なく信じることに恐れを感じる。

どうしてさ?自分なんて誰からも大事にされない。大事にされたことなんてない。他人が自分に価値を感じること、価値を感じているということを屈託なく信じることに恐れを感じる。だから僕は「役に立つ人間」になりたい。実用的な人間。使える。それ以上の評価はいらない。それ以外の評価を信じたくない。自分が誰かにとって価値がある。価値があると思われている。それを屈託なく信じて、そして裏切られることが、僕は怖いんだ。

僕は勝手な人間だ。僕は人から裏切られたくない。僕から人を裏切りたいんだ。人に期待などされたくないんだ。人が僕を大事にしようとする気持ち、価値を認めようとする気持ちを否定し続けたいんだ。ひどいだろう?自分を守るために、裏切りによって傷つきたくないために、人の気持ちを否定するんだ。自分を愛してくれる人の気持ちでさえも。

でも僕は、人を悲しませたくない。だから偽善を売る。偽善を売るのは得意なんだ。僕は人を優しく裏切ろうとする。そのために考え得るすべての偽善を駆使する。偽善を駆使して、僕は人を利用する。僕が気持ちよくなろうとする。人から必要なだけの評価と愛を受け取って、他のすべてをやんわりと固辞する。

僕は僕の勝手な気持ちを人に押し付けたい。僕は僕の勝手な気持ちを人に受け取らせ、うなずかせ、認めさせ、価値を分からせたい。それをコントロールしたい。人が自分の気持ちを勝手に受け取ること、勝手に了解し、勝手に認めることを許したくない。僕のことを勝手に決め、勝手に利用することを許したくない。自分にとって他人を御しやすいものにコントロールしたい。他人を心地よい距離に飾っておきたい。僕はそれをいつでも使い、必要なときは放り出したい。偽善はそのための道具だ。駆け引きの道具だ。どれだけ他人の中に自分をねじ込ませるかの戦いだ。ひどいことだ。でも僕は他人なんかより、自分が大事なんだ。

今まで書いたことを、僕はほんとうはどれだけしているのだろうか?どれだけやれてるのだろうか?どれだけやりたいのだろうか?でもこれは僕のほんとうの気持ちだ。こんな僕を認めてくれるな、愛してくれるな、と思う。そしてこれは僕の偽善だ。ほんとうの気持ちをさらけ出すポーズだ。同情を誘い出す。他人の同情の中に僕の欲望をねじ込もうとする。ひどいことだ。気持ち悪いことだ。でもそうしてきっと僕は、気持ちよくなるんだ。