ダンス・ダンス・ダンス(下)

読了。最後は祈っていました。主人公が救われるのを。私も彼のために泣いていたのかもしれません。彼が泣けないもののために。
メイが死に、ディック・ノースが死に、五反田君が死んだ。それらの死は幻想に生きてきた人々、現実を生きられなかった人々の止むを得ざる帰結だったのでしょうか。たとえそれが間違ったつながり方だとしても、そのようにしか世界とつながれなかった人々。彼らの行き着く先は、死という救済でしかなかった。
でも、彼らが生き続けるために、他にどんな選択肢があったのか考えると、私はとても悲しくなる。そう、みんなそのようにして止むを得ざるところまで生きてしまう。生き直すことが出来ないところまで流れていってしまう。あらゆるものものを失って、失ったときにはそれがどんなに大事なのか気づくこともなく。そして気が付いたときには、なにもかもが失われ、それらを取り戻す力さえ奪われている。「あっちの世界」へ流されていく。踏みとどまる力さえ奪われている。高度資本主義社会とは、つまりそういう世界なのだ。
紀伊国屋には調教済みのレタスが並び、東京からホノルルのコールガールを手配することが出来る。望むならばなんでも手に入れることが出来る。ほんとうに大事なもの以外のものは全て。
大事なものは失われ、本当に欲しいものではない「間に合わせ」が常にあてがわれる。もちろんそれで私たちは生きていける。生きていけるけれども、私たちが本当は失うべきでなかったものをも、高度資本主義社会は他のものと交換してしまうのだ。暴力的に価値を定め、他のものと交換してしまう。私たちはそうして生きていってしまう。ほんとうはとてつもなく大事なものが失われているかもしれないのに、それを立ち止まって落ち着いて確かめる余裕はない。そんな余裕は、高度資本主義社会に生きる私たちにはゆるされないゆとりなのだ。
もちろん、失われていくものを取り戻そうとすることなんて「後ろ向き」なことはゆるされるはずもない。
欲しいものは、大事なものは、つかまえて決して離してはいけない。

僕らはどんどん移動しつづけている。そしてその移動にあわせていろんなものが、僕らの回りにあるいろんなものが、消えていく。これはどうしようもないことなんだ。何ひとつとしてとどまらないんだ。意識の中にはとどまる。でもこの現実の世界からは消えていくんだ。
ダンス・ダンス・ダンス(下)村上春樹 講談社文庫p334

欲しいものは、大事なものは、現実的に求めなくてはいけない。そして現実的に強く求めることによって、その「もの」もあなたを強く求めるようになる。強く求められるということはそういうことだ。移動しつづける、失われつづける、すべてを流しつづけるこの世界にくさびを打ち込むのだ。固い固い結び目を作るのだ。それはもはや、他のなにものとも交換不可能な価値を持つだろう。いや、あなたが価値を定めるのだ。高度資本主義社会が定める価値の暴力と戦って、あなたが価値を定めるのだ。そのことによってそこは、あなたのための世界になるのだ。高度資本主義社会と並び立つ、独自の、あなたのための世界。そこにあるものは永遠に失われない。そこにとどまるのだ。