憲法を考える上での2つの新聞記事の記録

2018.3.27 朝日新聞朝刊15面 「オピニオン&フォーラム 憲法を考える」

戦後レジームと9条” 学習院大学長・井上寿一さん

そもその吉田(茂)は、最初は憲法9条を真面目に受け止め、国連に期待していました。しかし当時から今に至るまで常設の国連軍は存在しない。いずれ国連に日本の安全保障を委ねるのだけれども、それまでは小遅れん安保理の理念の下で、何らかの二国間協定で守ってもらう。その相手は事実上米国だけであり、9条が規定する日本の安全保障を現実的に考えたときに、日米安保を結ぶ意外になかった。

憲法の制定過程で首相だった幣原喜重郎もその次の吉田も、終戦直後に憲法改正に消極的だったのは事実です。英米協調派の外務大臣や外交官だった彼らにとって帝国憲法は悪いものではなく、問題は軍部だった。特に吉田はいずれ憲法を改正して軍隊をきちんと持ちたいと思っていたでしょう。

幣原も吉田も戦争放棄憲法9条を受け入れたのは天皇制を存続させたいと考えたからです。天皇制を残す一方で、その代わり戦争しないと明確にする必要があった。

戦争調査会は幣原の発案で、45年から国家プロジェクトとして戦争原因を探ろうとした組織ですが、あまり知られていません。東京裁判が46年に始まり、対日理事会やGHQによって1年に満たず解散させられます。しかし特筆すべきは、東京裁判の前に、日本人が自主的に戦争原因の追及をしようとしていたことです。

戦争調査会の第1回総会が3月27日でした。そこで幣原が語った内容には、戦争放棄の理念を自分のものにしたいという強い思いが表れていました。

幣原は46年の段階で、戦争放棄・戦力不保持が夢の理想として批判されることを予想していました。それは日本が「単独に寂しく独りで」進む道だとも。しかし彼は原子爆弾に触れ、何百万の軍隊が灰燼に帰す時代が来るだろうと言う。核時代の到来を予測していたのです。その上で、そんな時代には日本についてくる国もいずれ現れるかもしれない、という趣旨を述べています。

マッカーサーの回顧録には憲法9上に体現されている「戦争放棄」は幣原が46年1月24日の会談で言い出したとあります。

幣原は46年3月までに、戦争放棄の理念のもとで国家再建をする、という考えにだんだん傾斜していったのではないか。そして、将来再び戦争が起こりそうになったときのために、なぜ日本が戦争をしたのかという記録を残しておこうとした。その点から幣原にとって新憲法は押し付けではなく、主体的な選択であり、核時代という新時代に向けた彼の思想だったのです。

 

2018.4.3 朝日新聞朝刊4面「憲法を考える 自民党案から」

"手順間違え 国民に警戒感” 中北浩爾・一橋大学教授

いまの自民の会見路線は、2000年代に台頭した民主党への対抗上のものだ。民主がとったのも現行憲法を肯定的に評価するリベラル路線。自民はこれとの差異化を図ろうとした。

その表れが05年と12年に発表した改憲草案だ。05年草案は新しい人権や統治機構改革など、まだ穏健な内容だったが、民主に政権を奪われると右寄りの理念を鮮明化し、天皇元首化や家族の相互扶助義務などを盛り込んだ12年案ができた。

そのなかで、9条を維持しつつ自衛隊を明記するという安倍晋三首相の提案は穏当だ。国論を二分した解釈会見による集団的自衛権の行使容認がなければ、幅広い国民のコンセンサスを得る可能性があったし、私も賛成だった。だが、安倍政権は手順を間違えた。