硝子生命論/笙野頼子

読了。んー、相変わらず小難しい。小難しいけれども、この人の「書かざるを得ない感」は好きです。田舎の保守的な頭がいいだけが取り柄のブスな女性、に生まれたが故の、それ故の…宿命。たとえばそれを生き辛さとか言ってはいけない。ある意味での特権。彼女が文学的存在にしかなり得ない理由。笙野頼子は、それ故にこそ作家でしかあり得ない生き物なのだろう。
自分にもそれは分かる。小学3年生のときに読書感想文で佳作を取った時に自分もやはり勘違いしたのだから。運動が苦手で頭もそれほど良くない子供がうっかりそんなところで佳作なんて取ってすっかり勘違いしてしまった。ああ、これだ!これこそがぼくの才能だ!ぼくはこの才能で世の中と渡り合っていけるんだ!なんて。哀しいかな、いまもその才能とやらをどこかで心の支えとしてこんな文章を書いている。みじめだ。
美少年の死体人形と暮らす「私」とその人形を作った人形作家「ヒヌマ・ユウヒ」。生身の男性を愛せない=自己評価への恐怖(ブスなど見向きもされない現実に対する恐怖)と立ち向かえず、美少年の死体人形と暮らすというインモラル。そのインモラルを隠そうとするが故に自分を神話化しようとすること…疑似行為としてのタブー破り…幼稚すぎる…しかしそれでしか世界を転換できない…死体人形の存在を肯定すること…人形が人間になり人間が人形になる…ヒヌマ・ユウヒを秩序とする硝子生命の国家の誕生…
まったくどれも哀れすぎる。哀れすぎるけれども、そうしてしか生きられない…社会のメインストリームに乗り損なって、あるいは乗っていく権利をことこどく奪われ続けた人たち…気がついたときには自分だけが童貞or処女だった(みたいな)…他者の中に自己を見すぎてしまう人たちの…価値観の呪縛、登れない井戸へ落されたような…そんな哀れ。
そんな哀れだけを、哀れであるが故に絶対的に文学であるそんな哀れを、書き続ける…復讐?怨念?理論武装(=自己神話化)と言うブサイクな行為?なんだろう?でもこれは確かに文学なのだ。それだけは確かだ。醜いからこそ、哀れだからこそ、自虐だからこそ…とにかくきれいではない理由においてまったく文学なのだ。
これからも読まなくては行けない、笙野頼子は。彼女の存在は、絶対的な理由で拒否ができないのだ。拒否できない理由でもって彼女はこの世界に存在し、世界に対し屹立し、対峙している。