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携帯電話はライナスの毛布なのだ

今日の朝日新聞の文化面で、トランジスタラジオの登場が空間を変えた、との記事が載っている。ポータブルになったラジオ。イヤホンを耳に突っ込めば、私たちは今いる空間から離れて電波でつながる別の空間とつながることができる。それをパッケージングしたのがウォークマンであり今のipod。そして携帯電話もメールやwebとつながることで、こことは別の空間につながることができるメディアだ。
ラジオ、ウォークマン、携帯電話の登場で、私たちは自分が生きている空間とは別のパーソナルな空間とつながることができるようになった。パブリックな空間にパーソナルな空間を持ち込もうとするのは、高度資本主義社会において賃労働者として、あるいは公教育の中で拘束される学生として、多くの時間をパブリックな空間で過ごす私たちにとって、逃避という名の抵抗であり、苦痛な時間をやり過ごす逃げ場だ。
このように私たちはパブリックな空間での公的な自分とは別に、パーソナルな空間での私的な自分、そして同じ嗜好を持つ人たちとクラスタ化して安定しようとする。それは公的な自分だけでは自分の自我を満たしきれないからだろう。
だからパーソナルな空間とつながる装置はポータブルでなければならない。自我=自分自身がパブリックな空間を移動する存在であるなら、パーソナルな空間とつながる装置もポータブルであり、自分のそばに常にいなくちゃならない。
記事の中でメディア学者のマクルーハンは、かつてラジオを「部族の太鼓」と呼んだ、とある。部族の意識を一つにした古代の太鼓のように一人一人に響き心をつなげる。それがいまや、わたしたち一人一人がwebやメールで発言することで、一人一人が部族の太鼓を叩いている状態だ。そしてその部族の太鼓に共鳴するもの同士の心をつなげ、パブリックな、公的なクラスタ(会社、学校、地域社会、家庭)とはまったく別の、パーソナルな、私的なクラスタを形成する。
1955年のトランジスタラジオの登場から、私たちはパブリックとパーソナルという自我の二層構造の中で生きていくようになった。この流れはもうすでに固定化し進化し続けている。
最近Twitterにはまっているから思うのだが、人は老若男女問わず多面的であり、複数のクラスタに接続しうる存在であることてもおもしろい。たくさんの人たちのそれぞれの面が少しずつ接合しながら万華鏡のように人間社会の模様を描いている気がする。
その窓口である携帯電話やモバイルPC、ウォークマンipod、そしてラジオ。ポータブルなそれらの装置はまるで子供が母親と一体化した世界から他人と共有する外的現実への移行を助ける、移行対象のようではないか。であればこそ、それらの機器が小さく可愛らしくさえある姿をしているのは当然だ。
わたしたちにとってポータブルなこれらの機器はパブリックな自分とパーソナルな自分を橋渡しし、自由に行き来するための移行領域を呼び出す移行対象なのだ。いわゆるライナスの毛布なのだろう。だからいつも触っていたくなる。