政治に金がかかるのは常識なのか

西松建設のダミー政治団体による迂回企業献金問題で小沢一郎氏、二階氏などに問題が波及しつつあります。当の小沢一郎氏が企業・団体献金の全面禁止を提唱したりして「はぁ?お前が言うか?」てな感じですが。
今朝の朝日新聞にて「企業献金禁止に踏み出せ」とありますが、果たして政治と金の問題はここまで来たなあという感ありです。しかしほんとに政治と金の関係は断ち切ることができるのでしょうか。
そもそも政治に金がかかるという常識があり、そのために政党助成がある。当然これだけで金が足りないから政治資金を集めるわけで。それに西松建設のように企業や団体側が政治にお金を出したい場合がある。それはつまり政治が作り出す利権を金で買うためである。政治家と企業・団体の間には利権を売り買いする市場があるのだ。
政治家は利権を売って票を買い、企業は金を出して利権を買い票を売るのだ。こうなるとつまりは、金がある者、利権を売る立場にある者が政治を動かすことになる。本来は社会に国家に国民に何を為すかが政治の目的であり、金はその手段であり利権は執政に伴う結果にしか過ぎないはず。しかし今この状況は、金や利権こそが政治の目的であり、政治の力=票はその手段となっている。そこには公共の福祉の概念はまったくない。
先日のニコニコ生放送、ひろゆき×堀江貴文対談で堀江さんが言ってたのだが、昔は政治は金持ちがやるものだった。金持ちでないものが政治をやるようになり、金が必要になるから不正な手段で金を集めるようになる。だから、金持ちが政治をやればいいのだ。金持ちが政治をやるからといって、政治が金持ちびいきになることはないと思う。と。
「金持ちが政治をやるからといって、政治が金持ちびいきになることはない」というところには賛成できないのだけど。でもたとえばフランス革命などブルジョア革命などからも明らかなように、金を持つようになった商人などが権力を持たせろ、と言って既得権だけでふんぞり返っている貴族・王族を打ち倒してしまったように、金持ちになると権力を志向するのは古くからの歴史なようだ。
でもこの論法で行くと、政治に金がかかるの常識からは到底抜け出せない。むしろ政治に関わりたいのなら金がなくちゃね、ということになってしまう。金持ちが名誉とかのためによい政治をやってくれるとは到底思えない。それはここ数十年の「政治と金の問題」の歴史が証明してるじゃないか、と。
なんで政治に金がかかる、という常識から逃れられないのか。ブルジョア革命がいけないならプロレタリア革命ならいいのか。でもソヴィエトも中国も北朝鮮もうまくいったように見えない。キューバとてカストロというカリスマでなんとかなってるようなもの。
結局政治には金がかかる、というよりは政治は金を生む、ってことなんだよね。政治は、利権は金を生むから投資する価値があるってことだ。権力は腐敗するという数千年繰り返してきた人間の歴史ってことだ。なら権力は腐敗するという前提でシステムを作り直さないといけないということだ。でも、でも、だとしたら、人間にはなぜ腐敗するほど強力で巨大な権力が必要なのだろうか?
腐敗せざるを得ない権力が為し得る公共の福祉があるとして、公共の福祉の名の下に権力は腐敗していいだろうか?なにが公共の福祉で、何が権力の腐敗で、何が浄財で何が不正政治資金なのか。判断するのは人だ。頼りなき人の判断を助ける法がいるのだろうな・・・。