憲法記念日にいつも思うこと。

憲法九条を守ろう、と言う。憲法九条は日本の文化だと言う。多くの集会が今年も憲法記念日に開かれた。その一方で九条はすでに有名無実化しつつある。イラクへの航空自衛隊違憲判決を受けて、空幕幹部が「そんなの関係ねぇー」と言ったのも、憲法九条の拡大解釈/運用によって、いくらでも憲法九条を骨抜きにできるという実績があるからこそだろう。そう、すでに憲法九条を「守る」ことだけでは、自衛隊による武力の行使を止められないのだ。
法律とは現在の社会に対して実効性のあるものでなければ、有効に現在の社会を制御できない。分かりやすいところでは刑法は犯罪を犯した者に対する罰を規定したもので、現在起こりうる犯罪に対して罰則規定がなければ裁けないし、商法は現在の商業活動のあり方を帰省したり管理したりするものであるから、現在の商業活動の範囲や形態が変われば、それに対応した法律が整備されなければならない。
現在の事象に対して、それを実効的に「法治」できる法律でなければ、現在の事象を制御できないのだ。「国家による武力の保有/行使」については、憲法九条という大元の法律によって禁止されてきたのだが、それが実効性を持たないことは、1950年の朝鮮戦争の時点ですでに露呈したのである。だからこそGHQの指導のもと警察予備隊→保安隊→自衛隊と、武力の保有を進めてきたのだ。そしてそれ以降、自衛隊による武力の保有/行使という現在の事象が発生したときに、政府はそれを制御する実効性のある法律を整備しなかった。実効性のある法律の整備とは、つまり憲法九条の改正である。それはそうだ、武力の保有/行使を「禁止」している憲法と相反する現在の事象が生じているのに、それを制御する法律がないのであれば、それは現在の事象の方を解消するか、憲法の改正をするかいずれかだろう。
だが、政府が取った方法は九条を拡大解釈して運用することだった。そして今に至るまで、泥縄式に拡大解釈が行われて運用が続けられているのだ。この状態で「憲法九条を守ろう」と叫ぶ意味はあるのか?である。叫ぶべきは「自衛隊を廃止しよう」あるいは「民主的なシビリアンコントロール有事法制を確立しよう」のいずれかではないのか?と思うのである。
つまり私たちは「憲法九条に賛成or反対」という単純な二者択一にとらわれてしまい「現在に対して何が有効な方法なのか?」という戦略を考える力を失っている、と思うのである。
私たちを取り巻く事態はそんなに単純ではないのである。たとえば北朝鮮という具体的な脅威がいま目の前にあるのに、私たちは自衛隊またはそれに代わる武力を持たずに安心して暮らせるのか?北朝鮮だけではない、中国台湾関係にしろロシアにしろ、極東アジアは安定しているとはとても言えないのである。だからといって武力を持つことだけが選択肢ではない。東アジアに経済互恵関係を構築していくことも平和へ貢献するだろうし、世界の不安定地域へ有効な政府開発援助を行っていくことも有効だろう。当然文化交流なども有効なことだろうと思う。
そういう、経済/文化的な「平和安定への手段」を講じながら同時に、日本に必要な武力とはなんなのかを冷静に考えていくべきだ。武力を持ったら即戦争をおっぱじめる訳ではないだろう、しかし同時に制御できなければその危険もはらんでいるのだ。過去の戦争が、軍部の独走を止められなかったとの反省から、武力と交戦権の放棄という「憲法九条」を作った当時の日本人の思いは分かるし、その願いも私は理解している。しかし、太平洋戦争終戦の5年後には、現実は武力の整備を行わざるを得なかったのである。
理想は現実に勝てなかった、だから理想など捨てよ、と言っているのではない。理想は持ち続けなければならない。しかし理想ばかり唱えていても、現実が理想に近づいてくれる訳ではない。「憲法九条を守ろう」という空文句を唱えている間にも、政府は憲法九条の拡大解釈を繰り返し、イラクの戦争地域にまで自衛隊を派遣してしまったではないか。憲法九条を守りたい、戦中を知り、九条の理想をよく知る人たちをバカにしている訳では毛頭ない。私だって九条を望んだ、戦力の保持と交戦権の放棄を望んだ人々の理想を信じたいのだ。だからこそ「九条を守る」以上の実効性のある、武力の保有/行使を制御する法律の確立をこそ、九条の理想を継ぐために考えていきたいのだ。
「九条を守る」という言葉、そして憲法に九条が書かれていることはもちろん、政府に対する抑止力になるとは思う。しかし180度反対に働く力は作用する軸がずれたときに全く抑止力として作用しなくなるのではないか。私たちが考えるべきは「九条の理想を守るために、現在の事象、政府の動きに対して、どう有効に力を作用させるべきかだと思う。九条を守るという空文句を唱えるより、九条の理想をどう現在の事象の中で達成させていくか、考えていくべきではないだろうか。