大人になってしまったなあと思う時

いま、「土曜ワイドラジオTOKYO954永六輔その新世界」を聴いていて、オープニングの話題として、小学六年生の自由研究として「自民党政権の今後」というのがあってびっくりした、という話が出ておりました。それを聴きながら自分もびっくりしたと同時に、びっくりした自分に、ある意味びっくりした。というのは、たぶん自分がいま小学六年生だったら、たぶん同じようなことを考えるだろうからだ。むそーはそういう子供でした。
当時と今では情報化社会の進展が違うし、子供に対する情報提供のスタンス(たとえば小学館の学年誌に掲載される情報が大人もびっくり、なんて話題もずいぶん前のこと)や、情報入手の手段(いまやインターネットがあって当たり前の時代。自分が子供当時はTVと新聞くらいしか無かった)も異なるので、自分が当時考えられた時事に対する問題意識のレベルも、現在とは大きく異なるだろうけれど。
自分がびっくりしたのは、小学六年生が「自民党政権の今後」という自由研究を行うということが、必ずしもびっくりするようなことではない、現在自分が小学六年生だったら、同じようなことを考えるだろうということを忘れていたということである。そして、自分が「小学六年生がこんなことを考えるんだぁ…」ということを想像できなくなってしまっていることにびっくりしたのだ。大人とは何か、という定義の一つとして「子供の考えることが想像できなくなる」ということがあげられるのではないか、と考えました。
もちろんそれは悪いことではないのです。大人になって、なんで自分は子供でいられたのか、ということに気付くのは、自分が大人になったからなのですし、それは「成長」の証でもあるのですから。ですが、自分が子供でなくなってしまったことに、少なくとも子供の心や考えを理解できなくなってしまえる程度には大人になってしまったことに、ある種の寂しさを覚えるのです。もちろんもう、大人=汚いというような子供じみた思想も、子供は純粋だというようなありきたりな妄想も持っていないことは自覚しているのですが、その自覚を忘れそうな自分がいることにちょっとびっくりというか戸惑っていると感じました。
いやあしかし、子供が大人になるって、いろんな意味で凄いことですね。ある意味子供と大人が同じ「人間」という動物だということにびっくりする感じもします(大げさかw)。